第一章「小さな冒険」
<3 ひさしぶり>
「うん…うん! 久しぶりだね! 蔵馬!」
梅流がそう言えたのは、蔵馬が言葉を発してから、随分経ってからだった。
――ここのところ、父の具合が悪かった。
といっても、風邪を少しこじらせただけで、命に別状はなかった。
けれど、早く治るにこしたことはない。
サンタローズにいる薬師が、凄腕だという噂を聞いて、幾年かぶりに村を訪れたのは、昨日の日暮れのこと。
薬師は留守だったため、宿屋に1泊した。
今朝になっても、薬師は戻っていなかった。
小さな村である。
特にさせてもらえる仕事があるわけでもなし。
薬師が戻るまでどうするのかと母に問えば、
「母さんの古い知り合いの家があるから、行ってみるかい? 最もまあ、主は留守だろうけど」
と言われ、そのままの足でその家へ向かった。
煉瓦の家の扉をノックすると、恰幅のいい中年の男が現れた。
母の古い友人に仕えていたという彼は、梅流のことも覚えていると言ったが、残念なことに梅流に彼の記憶はなかった。
「ごめんなさい」と謝ったが、彼は仕方がないことだと言ってくれた。
何せ当時の梅流は、よちよちと歩ける程度の子だったというから。
それでも梅流は、覚えていないことを申し訳なく思い、昼ご飯は1人で作ると言い張り、借りた台所へ立った。
結果はまあ……子供が作る料理だというくらいだったが。
それでも彼は美味しいと言って食べてくれた。
若干、こめかみが引きつっていたのだが、梅流は気づいていなかった。
その後、後片付けもやると言ったのだが、母がやるからと言われて。
(それこそ台所がものすごいことになっていたからだが、梅流は無自覚である)
退屈なので、しばらく外で遊んでいた。
そこそこ広い庭なので、子供には興味惹かれる環境だった。
けれど、綺麗に整えられた芝や植木、菜園などに幾度もツッコミかけては、慌てて急ブレーキをかけることを繰り返して。
あえなく、断念。
2階へ上がってもいいと男が言ってくれたので、登らせてもらった。
そこはシンプルだけれど、居心地のいい空間で。
何より、本がたくさんあった。
もちろん、梅流にはほとんど読めないものばかりだが、背表紙が簡単な言葉なのを引き出してみれば、絵本が幾冊かあって。
開いてみれば、これがなかなかにして綺麗な絵なのだ。
高い棚にある本には手が届かないため、椅子を引っ張り出してきて、夢中で読んだ。
窓の前を小鳥が横切ろうが、虫たちが合掌しようが、日の光が「夕焼け」にかわっていこうが。
全く気がつかないくらい、夢中だった。
「て、ん…くう…の……これ、何て読むんだろう? …しゃ、さま……よく分からないな〜」
分からなかったが、絵の美しさだけはよく分かった。
とりわけ、大空と立派な騎士が描かれた大きな絵が、梅流はとても気に入っていた。
「読めたらいいのにな〜。あ、このページは読めそう!」
先ほどの絵とは違い、小さなコロコロとした生き物たちが描かれている。
可愛さに心躍らせながらも、ゆっくりと文字をおっていく。
簡単な文字は、幼い梅流にも読めるものだった。
読めるということは、絵を見るだけとはまた違った感慨を呼ぶ。
梅流は更に絵本にのめり込んでいった。
そして。
そこから抜け出したのは、本当にたくさんの絵本を読んだ頃だった。
半分だけ開けっ放しになっていたドアが、開かれた音が、やけに遠くに聞こえた。
ドアを振り返ったのは、いつもそうしているから起こる反射であって、その時の梅流はまだ絵本の世界にいた。
現実へと戻ってきたのは。
その邪気のない黒い瞳に、彼の存在が映し出された時だった。
「久しぶり、梅流」
彼がそう言うまで、どれだけの時間、沈黙が降りていたのかは分からない。
そして、彼がそう言ってからも、梅流はなかなか言葉を見つけられなかった。
混乱していた。
思ってもみなかった。
だって、彼がここにいるなんて。
『久しぶり』という言葉の通り、彼に出会ったのは、これが初めてではない。
初めて出会ったのは、数年前のことだ。
幼い梅流にしてみれば、短い人生の中で、おそらくは一番『最初の記憶』。
出会った場所は何処だったか覚えていない。
ただ、親が宿屋を経営しているため、滅多に町から出ることもなかったから、故郷のアルパカだと思っていた。
それにしては、彼の背後に広がる景色は、町の何処にもなかったけれど。
でも出会った場所など、どうでもよかった。
一緒にいたのは、たったの一日。
それも何かをしたというわけではない。
ただ、一緒にいただけ。
庭で遊んだり、川で水遊びしたり。
大人に内緒で、村の奥にあるという洞窟へも行こうとした。
流石に入り口に番をしている青年がいて、通してもらえず断念したが。
夜になると、一緒に食事して、一緒に後片付けをして。
まだ小さかったから一緒にお風呂にも入って、一緒のベッドで眠った。
翌朝早く、彼は親と一緒に出かけることになって。
もっといっぱい遊びたかったが、子供が逆らえるはずもなく。
「またあそぼうね」
と、何度も言って、指切りして。
……それっきりだった。
梅流の中で、一番最初の一番大事な思い出。
彼の親の顔も、何処だったのかも、いつ頃だったのかも、覚えていない。
けど、一度だって忘れたりはしなかった。
彼の顔。
彼の名前。
彼の笑顔。
彼の……ことを。
「うん…うん! 久しぶりだね! 蔵馬!」
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