幼い頃の自分を見るのは、奇妙な感覚だった。
自分のはずなのに、自分でないような……そんな不思議な感覚なのだ。
幼い梅流は蔵馬には全く気付かず、そのまま彼の横を通り過ぎていった。
「……思い出した。思い出した。
あたし小さい頃、この近くに住んでたんだ。
まだお母様が生きてて……お父様がお城で働いてて…。
何で今まで忘れてたんだろう……。
もしかして…この思い出しちゃいけない感情のせい?」
ならば尚更思いださなければ、このまま鏡を見続けなければ……。
それから数日間が一気に過ぎていった。
何も変わったことはなかった。
蔵馬は毎日、その茂みの中で幼い梅流を見つめていた。
それでも梅流が蔵馬に気付くことはなかった。
蔵馬が隠れるのが上手いということもあるのだろうが、
それ以上に梅流が鈍感なのだろう。
「そうだ…あたし毎日、この道を通ってお使いに行ってたんだ。
そのことも忘れちゃってたんだ…」
少しずつ思い出してくる過去のこと。
忘れていた記憶……。
最初は胸にちくりちくりと刺さるような感覚だったが、
それにも段々慣れてきた。
それよりも蔵馬と……こんな昔から繋がりがあったことに驚き、
そして嬉しく思っていた……。
「蔵馬……」
鏡を覗き込みながら、何度その名を呼んだだろうか。
もうその名で呼ぶことにも慣れていた。
眠っている蔵馬が起きても、多分同じように蔵馬と呼ぶだろう。
そして……事件は起きた。
いつものように梅流がお使いの品を持って家に帰ろうとしていた時、
蔵馬はいつも通り例の茂みでじっと梅流を見つめていた。
と、その時!!
逆方向の茂みから突然一頭の巨大な狼が飛び出してきたのだ。
『きゃああ!!』
叫び声をあげ、地面に伏せる梅流。
狼は小さな梅流の身体目掛けて急降下してきた。
『危ない!!』
「まさか!?…蔵馬あぁ、駄目えええ!!」
現在の梅流の声が過去の蔵馬に届くはずがない。
それでも梅流は叫んだ。
しかし……。
ピチャンピチャンッ…
蔵馬が腰から抜いた剣先から紅い血がしたたり落ちていた。
『はあ…はあ……はあっ……』
肩で荒く呼吸する蔵馬。
その横では狼が無惨な姿で転がっていた。
しかしまだ幼い蔵馬一人で、
こんなに大きな狼を倒したのは初めてだったのだ。
蔵馬自身も深手を負い、一人で立ち上がることも出来なくなっていた。
『あ、ありがとう…』
幼い梅流が蔵馬に歩み寄ってそう言った。
『いや…怪我、ないか?』
『梅流、全然平気だよ!あなたの方が大変だよ!』
そう叫ぶと、梅流は転がった買い物籠から
買ったばかりの包帯や消毒液を取り出し、手当を始めた。
『このくらい平気だよ……お前、帰った方がいいぞ。もう日が暮れる』
『駄目だよ!怪我してる人ほっとけないもん!!』
『…サンキュ』
蔵馬は梅流の好意を素直に受け、手当を頼んだ。
まだ幼い梅流の手当は危なっかしく、
とても安全なものとは言えなかったが……。
蔵馬は今までされてきたどの手当よりも温かいものを感じた。
家来や召使いは確かに上手い手当をする。
しかし……梅流ほど温かい手当は誰もしてくれなかった……。
『はい。もうこれで大丈夫だよ』
『ああ、サンキュ……あ』
『え?何?』
『いや、肩に…』
『えっ…い、いやああ!!』
再び絶叫する梅流。
蔵馬は何事かと後ずさったが、梅流は半泣きになりながら、
『虫ー!いやー!とってー!』
と叫んでいる。
蔵馬は大体の状況を察したらしく、ぽんっと梅流の肩に手を置くと、
乗っかっていたそれを取り除いた。
『よく見ろよ、ほら!虫じゃないって!』
『え?』
『ほら、木の葉だよ』
『あ……』
『お前、早とちりなんだな!』
あははっと楽しそうに笑う蔵馬。
梅流は真っ赤になって俯いていた。
蔵馬はそんな梅流の頭に手をおいて、
『今のお前、あの夕日みたいだぞ』
『え?あ!』
『ほら、もう帰りな。親が心配するだろ』
『うん!あ、でも…』
『おれなら心配するな。一人で帰れる』
『うん!!じゃあ、またね!!』
そう言うと、梅流は手を振りながら家へと帰っていった。
『またね、か……うっ!!』
「蔵馬!!?」
突然、地面に倒れ、苦しそうに唸る蔵馬。
「蔵馬、どうしたの!?蔵馬!!……あっ!!」
梅流の見ている前で蔵馬の……。
蔵馬の髪が、蔵馬の肌が、蔵馬の服が……。
蔵馬の全てが変わってしまったのだ。
銀色の長い髪。雪のように白い肌。
獣の耳と長い尾……。
当然、それに一番驚いていたのは、蔵馬本人だった。
『こ、この姿は!?』
慌てて近くの池に駈け寄り覗き込む蔵馬。
この時、梅流は初めて幼い蔵馬の顔を見た。
しかしそれも変わってしまった後なのだが……。
『殺生……したからか…』
力無く項垂れる蔵馬。
しかしその表情に後悔の色はなかった。
『まあ、いいか…梅流のこと守れたし……ん?何だ、お前か…』
いつの間に来ていたのか、蔵馬の背後に例の山の神が立っていた。
『殺生したのか……』
『まあな。けど後悔してないぜ』
『そうか…』
そう言うと、山の神は蔵馬の足下に一輪の薔薇を落とした。
『何だよ、この薔薇…』
『その薔薇の花びらが全て散る前に、人を愛しその者からも愛されよ。
さすれば汝は人間の姿に戻ることが出来る』
『ふ〜ん』
素っ気ない返事ではあるが、
それなりに元に戻れる方法があることには感謝しているようである。
『あ、そうだ。1つ頼みがあるんだけど』
『何だ?』
『おれが元に戻れるかどうか分からないのに、皆に待たせるの悪いだろ。
両親からも家来からも…全ての奴からおれの記憶を消してくれ』
「えっ!!?」
蔵馬の言葉にぎょっとする梅流。
しかしそれは梅流だけではなかった。
山の神も何を言い出すのかと、驚いた表情を見せていた。
しかし、すぐにさっきの落ち着いた表情に戻り言った。
『分かった……しかし某は、汝が元に戻れることを願っている。さらばだ』
……こうして、蔵馬は独りになったのだ。
王や王妃、家臣たち、それに梅流を含めた全ての人たちから、
蔵馬の記憶は完全に消え失せた。
そして…蔵馬を残し、この近辺から人の姿もなくなった。
王、王妃、家臣たちは別の城へ。
梅流たち一般の者は少し離れた村へ……。
あの山の神の配慮だった。
確かに野獣の蔵馬は世間から隔離しておいた方が安全ではあるだろう。
それが例え、蔵馬を独りきりにしてしまう行為であっても……。
梅流はもちろん、山の神のことを恨んだりはしなかった。
蔵馬が野獣になったのは、山の神のせいではない。
本当は、誰のせいでもないのだが……。
梅流は思ってしまったのだ。
「蔵馬……あたしの…ために……あたしの…せいで……」
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