序・岩の中の孫悟空
遥か昔。歴史にも残らない、不思議の地があった。名は桃源郷。
人間と妖怪が共存する世界。種族の違いを超越した生き物たちが、織り成す幸福の世。
しかし、近年、妖怪の力が急激に弱まっていた。
ほとんどの妖怪は霊力の強い人間や同種であるはずの妖怪を食べて、妖力を維持するしかなかった。
そうしなければ、死んでしまったり、自我を失ってしまうのだった。
しかし、「妖怪が人間を食べる事」は、人間に「妖怪は敵」という観念を植え付けてしまうものだった。
人間は妖怪との共存を拒み、妖怪は生きるために人間を喰う。
もはや、桃源郷は幸福の世などではなくなっていった。
そんな中、人を寄せ付けぬ深い山奥に、世間との交流を絶たれた1人の妖怪少女がいた。
名は『悟空』。
「空って大きな〜」
青空を見上げる度に、悟空は思った。そして、狭い岩から出られない身の上を情けなく思うのだった。
「風って気持ちいいな〜」
僅かに吹き込んでくる春風を感じる度に、悟空は思った。
そして、思い切り風を感じる事が出来ない身の上を憎く思うのだった。
「オヒサマもオツキサマも綺麗だな〜」
東から昇る時だけ見える太陽や月を眺める度に、悟空は思った。
そして、それらのように自由に動けない身の上を悲しく思うのだった。
悟空はずっと前からここにいた。
この岩から出られずに、いつもいつも太陽ばかり眺めていた。
いつ出られるのかなんて分からなかった。もう出ることを諦めてさえいたかも知れない…。
でも……。
「何してるの?」
眠っていた悟空に誰かが声をかけた。
顔を上げると、そこには1人の男の人が立っていた。
どんな空よりも大きく見えた。どんな風よりも心地よかった。
どんな太陽よりも月よりも綺麗な輝きを放っていた。
その長くて紅い髪も。緑色の瞳も。美しくて優しい表情も……。
悟空は思わず見とれた。顔が赤くなって体温が上がっていくのが、はっきりと分かった。
しかし、それ以上に、何か懐かしいものを感じた。
前からずっと知っていたような……。
「ここから出られないの?」
「うん」
「ここにいて楽しい?」
「ううん」
「ここから出たい?」
「うん」
反射的に答える悟空。500年間、話す相手がおらず
独りでいたせいもあるだろうが、言葉のボキャブラリーが
少ないという事が一番に上げられるだろう。 |
挿絵★璃尾サン<岩の中の悟空> |
「一緒に来てくれる?」
「うん!」
「おれは三蔵」
「さんぞ―?」
「ああ。でも、蔵馬でいい。おれの幼名だ」
「くら…ま?」
「そう。いい声だね。君は?」
「あたし……孫悟空……でもあんまり気に入ってないの……」
しゅんとする悟空。誰がつけてくれたのかも、分からない名。
しかし、あまりいい人がつけてくれたわけではなかったような気がする。
「……梅流」
「え?」
「これから君は、梅流だ」
「梅流?」
ぱああっと悟空の顔が明るくなる。どうやら、かなり気に入ったようだ。
「行こう。梅流」
蔵馬の差し伸べた手。白くて華奢でそれで何処か逞しくて……
梅流は迷わず手を伸ばした。
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